なぜに教育をデザインしたいのか、してほしいのかということを端的にお話します。かつて受験勉強で挫折し、改めて生徒に勉強の楽しさを教えてもらい、これからも学習を続けていきたいのかということを。
遠藤周作があるとき自分の文章がとある試験の問題に掲載されるということで、設問を解いたが全く正解にならなかったとコラムか何かに書かれていました。「作者がこの文章で何を言いたかったのか答えなさい」という設問だったそうですが、そんなことをこんな短文でまとめきれるわけがないだろうとは遠藤氏曰く。
国語教育の問題点は端的にここにあります。詩や俳句を教える国語の先生は日々どんな詩を書いているか、試しに一度尋ねてみてください。詩や俳句をご自身で書いていない?そんな国語の先生は僕から言わせてもらえば残念ながらエセです。どんなに稚拙でも未熟でも、国語の先生は自ら書いた作品をまずもって生徒に見せるべきです。音楽の先生は自分の書いたメロディーを演奏し、たとえそれがどんなに稚拙で生徒にバカにされようが、これが自分の表現なんだと胸を張ってその「表現することの意義」と「国語、音楽の愉しみ」を伝えなければなりません。
苦しみもがきながら詩を創ったこともない人間が、種田山頭火の自由詩についてもっともらしきことを語ったとして、それに何の意味がありますでしょうか。国語とは言葉という人間同時の記号を使ってとことん苦しみ、喜び、楽しみすむ行為そのものなのです。
日本の英語教育の基本は江戸時代の蘭学を学んだ医学者にあり、いまだに言語を理論的に、体系的に学ぼうとする日本の文法重視の英語教育はそこに基礎があります。それが全て間違いだとは言いませんが、全英語教育者に問いたいのは、あなたはどれだけ英語を話せてコミュニケーションが取れるというのか。そもそも話すべきネタ(興味、好奇心、知識、見識、文化)はお持ちでしょうか。
言語というのはとどのつまり記号でして、それ自体はそれ以上でもそれ以下でもない(言語哲学的視点)です。ですが、その記号の使い方、楽しみ方を学ぶと絶大なる力と影響力を持つことになります。他方、音楽や絵画は言語に依存しません(素晴らしい歌詞は当然あります)。あなたがなぜに洋楽を聴くのか、ベートーベンの第九交響曲を楽しむのか、シャガールやバスキアの絵をめでるのか。海外の方が日本の音楽を楽しめるのか。それはそれらの芸術には全く独立した物理現象と記号(周波数、リズム、メロディ、コード、構成、色彩)があるからです。
数学というのは言語と並び人類の際たる発明品であり最も洗礼された記号の一種です。曖昧性を全てそぎ落とした無駄のない記号です。Σ記号を使えばどの国のどの言語を使っているひとでも何を意味しているのか理解できます。物理学でも多くの記号が使われていて、それらの記号を理解する、楽しめる人間がその道を突き進みます。数学の重要性は論理的思考のみならず、世の中に蔓延する数字、数学記号をいかに効率的、効果的に使用できるかという点にあります。
教育をデザインする、というのはそういった記号を楽しむこと、また創造していくことにあります。マルチタスク学習法も教育デザインの一つです。これまで当たり前とされていた45分から70分といった学習時間が果たして本当に効率のよい学習方法なのでしょうか。繰り返しになりますが既存の教育に満足であり、順応できる方は敢えて教育デザインは必要はないでしょう。
四則演算という算数の基礎があり、その記号では足りないという考え方があれば自分でデザインすればよいのです。新しい記号を創造すればよいのです。それこそがイノベーションです。AIの世界で人間のみが確立できることが、新たな発想であり、イノベーションです。古くはコペルニクス、ニュートン、ダーウィン的な新しい考え方です。ダーウィンは、晩年にミミズを眺め続けてミミズが土壌に果たす役割を見定めとしながら、それをまとめきれずに息子に託した研究者です。誰も気にかけないことに目を向ける、ということがイノベーションの基本です。
AIも進化が進めばイノベーションが可能となるかもしれません。今今はAIとは膨大な過去データから「それらしきものを創る」作業の繰り返しです。元は人間が創った過去データに基づきます。革新的なものが生まれるとしたら、それはAI自体を過去データから独立させなければいけません。過去データに頼っている限りはAIの創造性は人間のそれには勝てないでしょう。それが僕の意見です。今今はAIというのはとある人間が膨大なデータを超高性能半導体プロセッサーに処理させ、ランダム処理などを繰り返しながら疑似的な「新しい世界」を作成してきます。ある時にAI側が「もう古いデータはいらないよ」というレスポンスを返したとき、彼らが次の自立の一歩を歩みだす時なのです。
教育に必要なことは改革や解体、脱構築、といった大げさな作業ではありません。個人個人で教育をデザインすること、つまり体系的、理論的な全体主義的学習から、より実践的で合理的な個人主義的学習への転換が必要だと考えます。